”きらら”とは一体何か ~ きららアニメを幾つか見ての雑感
2018年5月31日 ポエム近年、芳文社が出版する萌え系4コマ誌『まんがタイムきらら』とその派生雑誌に掲載されている、いわゆる"きらら系"作品のアニメ化が非常に多く、毎期1つか2つはある。皆さんもその幾つかを見たことがあるのではないだろうか。
それらのアニメを普通に見ててちゃんと楽しんでる人には特に言う事はありません。
今回は全く見たことがない、あるいは見たけど面白くなかった、楽しみ方が解らない、敬遠している、正直馬鹿にしている……そういう人が楽しめるよう啓蒙したいと思っている。
啓蒙なんて言うと傲慢で面倒臭く聞こえるが、要はピーマンを嫌う人でもピーマンの肉詰めなら美味しく食べられるのではないかと、アニメの場合は料理をする手間も要らず、ただ見方を変えるだけで楽しめるのではないかと思って。
勿論どれも原作がある作品で、アニメはアニメなりの解釈で描かれている所があり特定の要素が原作以上に強調されていたり、付け加えられていることもあるんだけど今回は"きららアニメ"に関してということでその旨ご理解されたし。
いつもはできるだけネタバレ避けているけれど、今回は核心部分にも触れてしまっているのでご注意を。
----------------
きららアニメを敬遠している理由として"日常系アニメ"という雑な括りや"美少女動物園"などという一網打尽にしてやった感のある揶揄(ヤマカン発だったねコレ)を「あー、そうそう、そんな感じだよね」とそのまま受け入れ、「だから見なくていいよね」と結論づけてしまっている人が多いのではないだろうか。というか自分が割とそんな感じだった。
しかしそれは誤解であると確信し、自分が発見した魅力を伝えるべくキーボードを叩いている。
確かに――
1.日常の中で女の子を可愛く描く
というのはどのきらら作品にも共通する要素であり軸である。
しかしどの作品にも
2.日常の中に散りばめられ、少しずつ描かれていくテーマがある
この部分を読み取ることで作品を別の角度から楽しむことができ、また女の子たちの多面的な深い魅力に気づける事もある。1と2が織り成すハァーモニィーを楽しむことができるのだ。
具体的に幾つか作品を挙げてみよう。
■がっこうぐらし
「え?この作品はきららの中でもイレギュラーなのでは?」と思うかもしれないが――
全く知らない人に大雑把に説明するとゾンビモノであり、過酷なサバイバル生活の中でそれでも"日常"を過ごそうとする少女達の物語で、ゾンビサバイバルx女の子というギャップを利用しているところはある。だが下手をすれば出オチで終わってしまいそうなその設定をしっかり活かして物語を描いている。
危険なゾンビをシャベルで積極的に処理する胡桃ちゃんや物資の管理および補給の為の計画立案を行う悠里さん、生存の為の行動もしっかり行う他の少女たちに対し、主人公の由紀は現状を認識できず、事件の前と変わらない世界が見えているかのように危なかしく振舞う。しかし、実際には由紀も深層意識で状況を理解しており、ゾンビを不良や幽霊に認識を置き換えて避けるなど生存の為に正しく動いている。消えた教師・佐倉慈の存在を妄想しながら、慈が自分に話しかけているという形を通して「みんなが貴方を想ってくれている。だから大丈夫」と自らの心の成長を促している。
目を覆いきれない日常の中、自分の心と向き合うことで少しずつその殻にヒビが入っていき――変化した世界と慈の死を受け入れた由紀は涙を流し、仲間と共に生きていくことを誓う。
その姿を見た時、"美少女動物園"という言葉に惑わされ、作品の本質を見てこなかったことに気づいた僕は彼女のように涙した。このアニメは少女達の幼さをただ魅力としては描いていない。同時に無力さや愚かさも描いていて、少女がその無力さを受け入れて前を向いたり、愚かさで誰かを救ったり……そういう弱さが反転する瞬間の美しさを描いているのだ。
この作品を見終わった時、「これはきららアニメの中でも例外的な作品なんだろうな」と僕自身思ったが今になってみれば僕はこの作品から「"きらら"とは何か」を考えるようになったし、この作品はしっかり"きらら"だったと思っている。
■ステラのまほう
超雑把に説明すると同人ゲームを作る高校生たちの物語だ。主人公は独特の感性を持つイラストレーター本田珠輝――たまちゃんは特別可愛くて僕のお気に入りだ。
同様にゲームを扱ったきらら作品である『NEW GAME』では会社員として、プロとしてゲームを作っており、商品としてのクオリティや納期、また社会人としてのマナーなどお仕事モノの色が強い。
しかし同人(アマチュア制作)を舞台にしたこちらの作品ではより純粋なモノ作り、創作活動に主眼が置かれている。勿論、他の人にプレイして貰うゲームなので最低限のクオリティが維持できるよう、バグが出ないよう、即売会に間に合うよう、徹夜で努力するなどのお約束も描かれているが――
この作品のテーマを直球で伝えてくれるのは、たまちゃんの小学生時代を描いた7話、後に親友となる裕美音の家を訪れる回だ。
JSたまちゃんは不登校の同級生・裕美音の家を訪れるが携帯ゲームで一人遊ぶ彼女は心を開いてくれず、たまちゃんを追い返してしまう。一緒にゲームで遊ぶことができず会話も上手く行かなかったたまちゃんは学校で他の子たちとボードゲームで遊びながら「こういう風に遊べたら裕美音とも仲良くなれるかな?」と考え、二人で遊べる自作のすごろくを手にもう一度裕美音の家を訪ねる。そのすごろくはとても拙くゲームとしての出来も悪かったが一緒に遊んだ裕美音は笑顔を見せてくれ――
創作活動は大変だ。アイディアの出ない苦しみ、仲間と意思疎通できない苛立ち、評価されない失望。アマチュアならば対価すら満足にもらえない。
それでもやるのは何故か。
誰かを楽しませたいから。
その狂気にも似たクリエイターの信仰と少女の無垢で純粋な優しさを重ね、これほど美しく描いた物語は他にない。まるで自分自身の中で燻っていた想いを抉り取られたようで――僕は涙した。
今この日記も、貴方を楽しませたいと思って書いてます!
と言い切れたらカッコ良かったんだけど、大体自己満足。
■スロウスタート
この作品の印象として「同時期の『ゆるキャン』に比べていかにもきらら作品っぽい」という感想をよく見かけたように思う。この作品の舞台はごく普通の高校、ごく普通の学園生活であり、ありきたりな学校行事や季節のイベントが描かれ、特別な部活動などを行っているわけでもない。なるほど、無個性な"日常系"に見え、そういう印象を受けたのかもしれないが――
この作品の物語上のオリジナリティは主人公・花名に依存している。
物語において"主人公が特別な秘密を持っている"という作品は多い。超能力者だったり、忍者だったり、ロボットだったり。この漫画では"病気で中学浪人したこと"が他人へ言えぬ主人公の特別な秘密となる。なんか妙に生々しく、重く、かといってリアリティがあるというほど身近には感じられない設定だし超能力やロボットみたいに主人公の武器としては役に立たなそうな設定である。
しかし"浪人したこと"で花名は特別な能力を獲得する。他者に受け入れられる歓びと、他者を受け入れる寛容さである。
解りやすいのは4話だ。
花名と同じ寮に住み、同じようにアクシデントから大学受験に失敗しそのまま二浪、引き篭もりとなった万年さん。コンビニに行く勇気すら失った万年に花名は自分を重ね、彼女のために力を尽くす。不器用ながらも真っ直ぐな花名の熱意に押された万年に少しの勇気が芽生えていく。
その勇気は花名が友人達から貰ったものだし、"ゆっくりでいい、もう一度始めよう"というテーマは勿論この話以前にも描かれている。しかし4話のラスト、大げさなオシャレをして外出しようとした万年さんが「どこに行くの?」と管理人に聞かれ「ちょっとコンビニまで」と笑顔で答える。このシーンこそ、この作品のテーマを使って出された最も完璧な答えだと僕は思う。
最高の芸術作品には神が宿るという。そして神を前にした時に誰もがそうするように、僕は画面の前で平伏し、ただ涙した。
コンプレックスがアイデンティティに変わり、物語を動かしていく。超常の能力ではなく、強く優しくなりたいと願う心の在り方が主人公の特別な能力。これもとても"きらら"だなと感じた。
■ゆるキャン
既に多くの人が語り尽くしている人気作品なので今更感もあるのだが……
一応ザッと説明すると、本栖湖に一人で行うキャンプ"ソロキャン"を楽しみに来たしまりんと、なんとなく富士山を見に来たなでしこ、2人の少女の出会いから始まる物語である。
『ゆるキャン』というタイトルから受けるイメージ通りの、キャンプというオリジナリティを持つ題材を女の子たちを使ってゆるく描くというミッションを完遂しきった作品で、見てもらえればその魅力もすぐ解ると思う。
ではこの作品は"きららアニメ"としてどうなのか。
こちらは前述の『スロウスタート』とは逆に、キャンプという特別な題材に加え、きらら誌の中でもストーリー性が強いとされている『きららフォワード』に掲載されている為、きららアニメの中でもイレギュラーな存在みたいに扱われそうだがこの作品はこの作品でとても"きらら"的だと思う。
よく言及されていることだが、この作品では一人でキャンプを楽しむ"ソロキャン"は決して複数でキャンプを楽しむ"グルキャン"の下位ではなく、とても肯定的に描かれている。
ソロキャンを愛するしまりんが、なでしこたちとのグルキャンも楽しいと思うようになる過程を描きながら、クライマックスはなでしこが初めてのソロキャンに挑むという構成になっていることからもそれが窺える。
みんなでキャンプするから楽しいのではない。キャンプは楽しいのだ。そしてそれは一人でも、ゆるくても、なのだ。
ある意味ゆるキャンの究極の対義のような存在として『神々の山嶺』という山と登山家を題材にした作品がある。そこで登山家・羽生丈二は命を賭け、他の誰もが達成できない事をする為に山に登る。命を賭け、ギリギリでなければ、自分の生きる意味を確かめられなかったのだ。その羽生丈二の不器用ながら力強い生き様に僕は涙した。
でもしまリンたちにとってキャンプを楽しむのに命を賭ける必要はなくて。
ゆるくていい、「キャンプって面白そう」がスタートでいい。
少女たちにとってキャンプはそれだけでワクワクできる大冒険だし、多くの視聴者にとってもそうだ。それをとても丁寧に描いているからこの作品は、多くの人にその魅力が伝わったたんだと思うし、疑うことのなく"きらら"がある作品だ。
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以上、4つの作品についてとても雑ではあるが語らせていただいた。
少女はとても可愛い存在である。
同時にとてもか弱い存在である。
だからこそ、弱い少女たちがそれぞれの運命に立ち向かう姿は見ている人たちを勇気付けられる力があるのだと思う。
弱くていい、愚かでいい、ゆっくりでいい、ゆるくていい……
色んな形があるけれど、そこに描かれる物語はどれもとても優しく、目指していたものに辿り着いた時の笑顔や涙は美しい。
僕はその輝きが"きらら"なのではないかと思っている。
"美少女動物園"―なるほど、面白い言葉だ。しかし美少女動物園の"檻"に少女達を閉じ込めているのは見ている人たちの心の"澱"ではないだろうか?もしその澱を取り除くことができたのならば、きっと彼女たちは人として何かを伝えてくれるだろう。
上手いこと言おうとしてしまったが、もしきらら作品を敬遠していた人が今まで放映されたきらら作品のどれかを、あるいはこれから放映されるきらら作品の何かを見る時は、ただ可愛い女の子たちの日常アニメだとかそういう偏見を取り去って、その日常の中で彼女たちがどう生きているかに注目してみてほしい。
きっとそこにも"きらら"はあると思うから。
それらのアニメを普通に見ててちゃんと楽しんでる人には特に言う事はありません。
今回は全く見たことがない、あるいは見たけど面白くなかった、楽しみ方が解らない、敬遠している、正直馬鹿にしている……そういう人が楽しめるよう啓蒙したいと思っている。
啓蒙なんて言うと傲慢で面倒臭く聞こえるが、要はピーマンを嫌う人でもピーマンの肉詰めなら美味しく食べられるのではないかと、アニメの場合は料理をする手間も要らず、ただ見方を変えるだけで楽しめるのではないかと思って。
勿論どれも原作がある作品で、アニメはアニメなりの解釈で描かれている所があり特定の要素が原作以上に強調されていたり、付け加えられていることもあるんだけど今回は"きららアニメ"に関してということでその旨ご理解されたし。
いつもはできるだけネタバレ避けているけれど、今回は核心部分にも触れてしまっているのでご注意を。
----------------
きららアニメを敬遠している理由として"日常系アニメ"という雑な括りや"美少女動物園"などという一網打尽にしてやった感のある揶揄(ヤマカン発だったねコレ)を「あー、そうそう、そんな感じだよね」とそのまま受け入れ、「だから見なくていいよね」と結論づけてしまっている人が多いのではないだろうか。というか自分が割とそんな感じだった。
しかしそれは誤解であると確信し、自分が発見した魅力を伝えるべくキーボードを叩いている。
確かに――
1.日常の中で女の子を可愛く描く
というのはどのきらら作品にも共通する要素であり軸である。
しかしどの作品にも
2.日常の中に散りばめられ、少しずつ描かれていくテーマがある
この部分を読み取ることで作品を別の角度から楽しむことができ、また女の子たちの多面的な深い魅力に気づける事もある。1と2が織り成すハァーモニィーを楽しむことができるのだ。
具体的に幾つか作品を挙げてみよう。
■がっこうぐらし
「え?この作品はきららの中でもイレギュラーなのでは?」と思うかもしれないが――
全く知らない人に大雑把に説明するとゾンビモノであり、過酷なサバイバル生活の中でそれでも"日常"を過ごそうとする少女達の物語で、ゾンビサバイバルx女の子というギャップを利用しているところはある。だが下手をすれば出オチで終わってしまいそうなその設定をしっかり活かして物語を描いている。
危険なゾンビをシャベルで積極的に処理する胡桃ちゃんや物資の管理および補給の為の計画立案を行う悠里さん、生存の為の行動もしっかり行う他の少女たちに対し、主人公の由紀は現状を認識できず、事件の前と変わらない世界が見えているかのように危なかしく振舞う。しかし、実際には由紀も深層意識で状況を理解しており、ゾンビを不良や幽霊に認識を置き換えて避けるなど生存の為に正しく動いている。消えた教師・佐倉慈の存在を妄想しながら、慈が自分に話しかけているという形を通して「みんなが貴方を想ってくれている。だから大丈夫」と自らの心の成長を促している。
目を覆いきれない日常の中、自分の心と向き合うことで少しずつその殻にヒビが入っていき――変化した世界と慈の死を受け入れた由紀は涙を流し、仲間と共に生きていくことを誓う。
その姿を見た時、"美少女動物園"という言葉に惑わされ、作品の本質を見てこなかったことに気づいた僕は彼女のように涙した。このアニメは少女達の幼さをただ魅力としては描いていない。同時に無力さや愚かさも描いていて、少女がその無力さを受け入れて前を向いたり、愚かさで誰かを救ったり……そういう弱さが反転する瞬間の美しさを描いているのだ。
この作品を見終わった時、「これはきららアニメの中でも例外的な作品なんだろうな」と僕自身思ったが今になってみれば僕はこの作品から「"きらら"とは何か」を考えるようになったし、この作品はしっかり"きらら"だったと思っている。
■ステラのまほう
超雑把に説明すると同人ゲームを作る高校生たちの物語だ。主人公は独特の感性を持つイラストレーター本田珠輝――たまちゃんは特別可愛くて僕のお気に入りだ。
同様にゲームを扱ったきらら作品である『NEW GAME』では会社員として、プロとしてゲームを作っており、商品としてのクオリティや納期、また社会人としてのマナーなどお仕事モノの色が強い。
しかし同人(アマチュア制作)を舞台にしたこちらの作品ではより純粋なモノ作り、創作活動に主眼が置かれている。勿論、他の人にプレイして貰うゲームなので最低限のクオリティが維持できるよう、バグが出ないよう、即売会に間に合うよう、徹夜で努力するなどのお約束も描かれているが――
この作品のテーマを直球で伝えてくれるのは、たまちゃんの小学生時代を描いた7話、後に親友となる裕美音の家を訪れる回だ。
JSたまちゃんは不登校の同級生・裕美音の家を訪れるが携帯ゲームで一人遊ぶ彼女は心を開いてくれず、たまちゃんを追い返してしまう。一緒にゲームで遊ぶことができず会話も上手く行かなかったたまちゃんは学校で他の子たちとボードゲームで遊びながら「こういう風に遊べたら裕美音とも仲良くなれるかな?」と考え、二人で遊べる自作のすごろくを手にもう一度裕美音の家を訪ねる。そのすごろくはとても拙くゲームとしての出来も悪かったが一緒に遊んだ裕美音は笑顔を見せてくれ――
創作活動は大変だ。アイディアの出ない苦しみ、仲間と意思疎通できない苛立ち、評価されない失望。アマチュアならば対価すら満足にもらえない。
それでもやるのは何故か。
誰かを楽しませたいから。
その狂気にも似たクリエイターの信仰と少女の無垢で純粋な優しさを重ね、これほど美しく描いた物語は他にない。まるで自分自身の中で燻っていた想いを抉り取られたようで――僕は涙した。
今この日記も、貴方を楽しませたいと思って書いてます!
と言い切れたらカッコ良かったんだけど、大体自己満足。
■スロウスタート
この作品の印象として「同時期の『ゆるキャン』に比べていかにもきらら作品っぽい」という感想をよく見かけたように思う。この作品の舞台はごく普通の高校、ごく普通の学園生活であり、ありきたりな学校行事や季節のイベントが描かれ、特別な部活動などを行っているわけでもない。なるほど、無個性な"日常系"に見え、そういう印象を受けたのかもしれないが――
この作品の物語上のオリジナリティは主人公・花名に依存している。
物語において"主人公が特別な秘密を持っている"という作品は多い。超能力者だったり、忍者だったり、ロボットだったり。この漫画では"病気で中学浪人したこと"が他人へ言えぬ主人公の特別な秘密となる。なんか妙に生々しく、重く、かといってリアリティがあるというほど身近には感じられない設定だし超能力やロボットみたいに主人公の武器としては役に立たなそうな設定である。
しかし"浪人したこと"で花名は特別な能力を獲得する。他者に受け入れられる歓びと、他者を受け入れる寛容さである。
解りやすいのは4話だ。
花名と同じ寮に住み、同じようにアクシデントから大学受験に失敗しそのまま二浪、引き篭もりとなった万年さん。コンビニに行く勇気すら失った万年に花名は自分を重ね、彼女のために力を尽くす。不器用ながらも真っ直ぐな花名の熱意に押された万年に少しの勇気が芽生えていく。
その勇気は花名が友人達から貰ったものだし、"ゆっくりでいい、もう一度始めよう"というテーマは勿論この話以前にも描かれている。しかし4話のラスト、大げさなオシャレをして外出しようとした万年さんが「どこに行くの?」と管理人に聞かれ「ちょっとコンビニまで」と笑顔で答える。このシーンこそ、この作品のテーマを使って出された最も完璧な答えだと僕は思う。
最高の芸術作品には神が宿るという。そして神を前にした時に誰もがそうするように、僕は画面の前で平伏し、ただ涙した。
コンプレックスがアイデンティティに変わり、物語を動かしていく。超常の能力ではなく、強く優しくなりたいと願う心の在り方が主人公の特別な能力。これもとても"きらら"だなと感じた。
■ゆるキャン
既に多くの人が語り尽くしている人気作品なので今更感もあるのだが……
一応ザッと説明すると、本栖湖に一人で行うキャンプ"ソロキャン"を楽しみに来たしまりんと、なんとなく富士山を見に来たなでしこ、2人の少女の出会いから始まる物語である。
『ゆるキャン』というタイトルから受けるイメージ通りの、キャンプというオリジナリティを持つ題材を女の子たちを使ってゆるく描くというミッションを完遂しきった作品で、見てもらえればその魅力もすぐ解ると思う。
ではこの作品は"きららアニメ"としてどうなのか。
こちらは前述の『スロウスタート』とは逆に、キャンプという特別な題材に加え、きらら誌の中でもストーリー性が強いとされている『きららフォワード』に掲載されている為、きららアニメの中でもイレギュラーな存在みたいに扱われそうだがこの作品はこの作品でとても"きらら"的だと思う。
よく言及されていることだが、この作品では一人でキャンプを楽しむ"ソロキャン"は決して複数でキャンプを楽しむ"グルキャン"の下位ではなく、とても肯定的に描かれている。
ソロキャンを愛するしまりんが、なでしこたちとのグルキャンも楽しいと思うようになる過程を描きながら、クライマックスはなでしこが初めてのソロキャンに挑むという構成になっていることからもそれが窺える。
みんなでキャンプするから楽しいのではない。キャンプは楽しいのだ。そしてそれは一人でも、ゆるくても、なのだ。
ある意味ゆるキャンの究極の対義のような存在として『神々の山嶺』という山と登山家を題材にした作品がある。そこで登山家・羽生丈二は命を賭け、他の誰もが達成できない事をする為に山に登る。命を賭け、ギリギリでなければ、自分の生きる意味を確かめられなかったのだ。その羽生丈二の不器用ながら力強い生き様に僕は涙した。
でもしまリンたちにとってキャンプを楽しむのに命を賭ける必要はなくて。
ゆるくていい、「キャンプって面白そう」がスタートでいい。
少女たちにとってキャンプはそれだけでワクワクできる大冒険だし、多くの視聴者にとってもそうだ。それをとても丁寧に描いているからこの作品は、多くの人にその魅力が伝わったたんだと思うし、疑うことのなく"きらら"がある作品だ。
-----------------------------------------
以上、4つの作品についてとても雑ではあるが語らせていただいた。
少女はとても可愛い存在である。
同時にとてもか弱い存在である。
だからこそ、弱い少女たちがそれぞれの運命に立ち向かう姿は見ている人たちを勇気付けられる力があるのだと思う。
弱くていい、愚かでいい、ゆっくりでいい、ゆるくていい……
色んな形があるけれど、そこに描かれる物語はどれもとても優しく、目指していたものに辿り着いた時の笑顔や涙は美しい。
僕はその輝きが"きらら"なのではないかと思っている。
"美少女動物園"―なるほど、面白い言葉だ。しかし美少女動物園の"檻"に少女達を閉じ込めているのは見ている人たちの心の"澱"ではないだろうか?もしその澱を取り除くことができたのならば、きっと彼女たちは人として何かを伝えてくれるだろう。
上手いこと言おうとしてしまったが、もしきらら作品を敬遠していた人が今まで放映されたきらら作品のどれかを、あるいはこれから放映されるきらら作品の何かを見る時は、ただ可愛い女の子たちの日常アニメだとかそういう偏見を取り去って、その日常の中で彼女たちがどう生きているかに注目してみてほしい。
きっとそこにも"きらら"はあると思うから。
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